<基本情報>
互いの正体(コト)は、まだ知らない。
無国籍・レトロパンク・ノワール。
牧師のジンは、人を捜している男マオと出会い、互いの正体を知らずに仲を深めていく。33歳×39歳、体格差リバ、R18。
※既刊とは繋がっていない完全読切ストーリーです。
2025/10/12発行
小説・B6・44ページ
書籍:500円
PDF:400円
<本文サンプル>
◆
聞こえてくる水音で目を覚ます。
身を起こすと、薄いカーテンの向こうに白い月が透けて見えていた。雨ではない。家主がシャワーを浴びているのだろう。
月明かりで見えた時計の時刻は、自分が意識を失った時間より少し前。つまり丸一日眠っていたということだ。
「少し、動きすぎたか……」
マオはベッドから起き上がり、床を足で探ってサンダルを履いた。
寝室の向かいにあるキッチンでは、痩せた猫が蛇口を舐めている。マオが近づくと警戒したように飛びのくが、出てはいかない。片目はあかないらしく、ひとつだけの目でこちらを窺っている。
「また勝手に入ってきやがって」
床にあった空っぽの皿に水を注いで置いてやった。自分も適当なコップで水を飲む。このあたりの配管は古く、水道水は錆の味がする。それでも喉の渇きにはかえられない。
寝間着にしていたシャツの裾で口元を拭って、バスルームへ向かった。猫はそのうち出ていくはずだ、こうして入ってきたのだから。
マオは浴室の扉を遠慮なく開けた。
「こんな時間に風呂か?」
水流の下にいた男は、驚くどころか振り返りもせずに答える。
「少し、汗をかいた」
腹に響く深い低音が、今だけはかすれていた。髪が肌に張りつき、首の後ろに入った十字架の刺青が見える。普段は襟に隠れていて存在を知られることはない。
マオは、サンダルだけを放り出して浴室に足を踏み入れた。だが流しっぱなしのシャワーの飛沫がかかるまでもなく、足の裏が濡れた瞬間に思わず叫んでいた。
「冷てぇ! なんで水なんだよ!」
裸の相手を押しのけて水栓を回し、湯に切り替える。冷水と熱湯が交互に出てくるたび声を上げながらなんとか適温に調節し、やっと相手の顔を見上げた。
「ジン?」
重いまぶたの下から暗い瞳がまっすぐ見据えてくる。普段より影を濃くした眼窩も突き出た頬骨も、変わらず凛々しくはあるが、どこか疲れているようにも見えた。
性懲りもなく、彼は嘆いているのだ。涙が混じっているずぶ濡れの頬に手を伸ばす。
「哀れな子羊を救えなかったのか、牧師さん?」
「いや……」
頭を抱き寄せられるまま、ジンは眉根を寄せて目を閉じる。
「わからない。どこまでおれが立ち入っていいのかも」
大方、客が取れなくて酷い目に遭っている下働きにでも縋りつかれたのだろう。牧師といえども夜の街のルールを無視するわけにはいかない。
聖職者という存在がなんのためにいるのか、マオにはわからない。この貧しい地域で信者を増やしても益はなさそうだ。時には体を張って住民を救うこともあるようだが、たった一人で救える範囲など、たかが知れている。
「俺の相手は、できるだろ」
脱ぎそびれたシャツの背中に、冷え切った掌が遠慮がちに触れた。
◆
スチームボウルシティは、その名のとおり巨大な深鉢だ。
立派なビルも雑多なバラックも、町のすべてが半球状の窪地に収まっている。崩落防止を建前に補強された鉢の「外縁(バージ)」は、円形の町をぐるりと囲む塀。
丘をひとつ越えた港町へ道が数本伸びている以外は、町の外側にほとんど人工物はなかった。
富裕層の高級住宅が日当たりのいい上部を占有し、町の大半はボウルの「中層(ミドル)」で暮らす。南を向いた斜面には、広い庭を備えた屋敷が多い。農園も公共施設もこちら側だ。反対側は陰になることが多いため、墓地や工場が目立つ。建物の屋根に煙突、首をもたげた重機などが内部の輪郭を形作っている。
最も低い中心部……いわゆる「鉢底(ラフ)」は、文字どおりに不法投棄されたがらくたや貧困層が集まる場所で、住人はそこから逃れるように斜面の上へと移動していく。
そうして人々が忌避する〈ラフ〉エリアの中央には、歪な形の塔がそびえ立っていた。鉄の機械や車両を積み上げた細い円錐から、クレーンの腕が枝のように生え、先端は折れたアンテナがちょうど十字型になっている。かつてこの町全体を動かしていた蒸気機関……の名残だ。
この町が地下資源を独占的に掘り漁っていた時代、つまり栄光の象徴であるはずだが、今は〈バージ〉エリアにも〈ミドル〉エリアにも最先端の機械が稼働している。型落ちで用済みの塔は、今はもう錆びついた部品をときどき落とすだけの立ち枯れた木も同然だった。
壊すにも巨大すぎて放置された塔は、いつからかジャンクタワーと呼ばれている。
不安をかき立てるサイレンが構内に鳴り響いていた。
月明かりもかき消す強力なライトが方々を照らし出した。外に接している壁周辺は夜間とくに警備が厳しく、〈ミドル〉は「善良な」市民たちの目が多い。逃げるとしたら下……〈ラフ〉エリアしかないだろう。
少年は、暗闇でもおぼろげに見えるジャンクタワーを目指して、急な坂や階段を駆け下りていった。
底に下りるにつれて家は高く狭くなる。タワーに近づくほどに古く粗末な建物が増え、道も複雑に交差するようになる。ならず者も多いと聞く。細い路地の奥へ入り込んでしまえば、追っ手もあきらめるだろう。
息を切らしながら、物陰へと身をひそめる。
囚人服のような検査着は、民家の軒に下がっていた洗濯物を奪って着替えた。むりやり揃えられた前髪も適当に切った。念のため顔を汚そうと、地面の土くれを掴む。
視界の端でなにかが動いて、驚きに飛び上がりかけた。しかしそれは小さなヤモリだった。壁に張りついてすばやく少年の前を横切っていく。
そういえば、鉢底には『家守(ヤモリ)』が棲むと聞いたことがある。治安警護部隊も放置しがちなこのエリアを、密かに守っているのだと。
明滅するネオンは、このあたりが歓楽街であることを示していた。地下から噴き出しつづける蒸気をエネルギーに変えて壁の監視灯まで行き渡らせているこの町では、こんな低層の看板や照明でも眩しいくらいに光っている。
通りでは酔客やら客引きやらが喧しい。これだけ騒々しく込み入っている場所なら、自分一人くらい……。
「手を頭の後ろへ」
「!」
逆光でもわかる。蛙の目玉のように上へ突き出したヘルメットの突起。身体は長いローブで覆われているが、上の研究所で強化改造を受けた特殊部隊《フロッグ》だ。
銃口を向けられては、言われたとおりに手を上げるしかない。
「零壹(ゼロイチ)82だな」
「……っ」
その番号を刷られた腕が疼いた。
違う。零壹82として終わりたくはない。だが《フロッグ》は容赦なく迫ってくる。
「実験体として戻るか、死体として戻るか。他の道はない」
拒否すれば、《フロッグ》は今すぐに自分を撃ち殺すだろう。だが研究所に戻れば、なにをされるか……。
『他の道がないのは、きみだ』
路地裏に第三者の声が響いた。
《フロッグ》はすばやく声の方向を特定し、迷わずに引き金を引く。
欠けた月の中に、人影が躍るのを少年は見た。
月明かりに照らされた、色違いの《フロッグ》……いや、形状があきらかに違う。これは……。
「《ゲッコー》か」
冷淡に呟いた《フロッグ》が、銃からナイフに持ち替える。
薄汚れた街の暗がりに棲みついている、謎の怪人。《フロッグ》と同様に、普通の拳銃や刃物は通用しないと聞いた。
強化装備を切り裂くナイフが、《ゲッコー》に襲いかかる。兵士の動きは超人的で、生身なら武器がなくても充分に強い。
だが《ゲッコー》が身体をねじったかと思うと、ナイフは地面に落ちていた。蹴り落とされたのだと、鈍く光る脚が地面に着いたとき気づいた。
『きみに死以外の道はない』
手首を押さえる相手へ、《フロッグ》以上に冷たい言葉を吐いて、《ゲッコー》は身をかがめる。強化兵は引かない。敵を仕留めるまで戦う。
少年には「その瞬間」が見えなかった。
ただ、《フロッグ》の血が顔に飛んできたことだけはわかった。
『……せめて安らかに眠れ、兄弟』
追っ手が、ただの骸となって崩れ落ちる。月の光が今度は死体を照らし出す。
眼と思わしき黒い部分が、こちらを見た、ような気がした。
次は不審者の自分だ。
「ぁ……」
かかった血を拭いもせず、少年はその場から一目散に逃げ出した。
◆
雑居ビルのあいだにひっそり建つその教会は、この町ができたころからあるのだという。古いけれど信仰は絶えることなく受け継がれてきた。
ガウンも着ずに祭壇の前で跪き、ジンはただ祈った。神はすべてを見ている。赦してほしいなどとはもう言えない。
だが、祈らずにはいられなかった。
近づいてくる《フロッグ》を察知して顔を上げたのは、夜半過ぎ。
連中が〈ラフ〉エリア内で強化装備を起動させると、意識の中に立ち現れる。視覚でもない嗅覚でもない、ジンだけが持つ感覚だ。
闇に溶け込む襤褸をまとって、呼ばれるほうへ向かう。《フロッグ》にはこの感知機能はないらしい。自分だけの体質という可能性もあるが、確かめるすべはない。
フードを深々と被っている《フロッグ》を見つけるのは難しくなかった。騒々しい通りを避けるように、裏路地を選んでいるようだ。単独行動ということは、極秘任務なのだろう。例えば脱走者の捜索中といったような。
居酒屋の裏手で潰れた木箱を拾い上げた。港からの酒が入っていたであろうそれを高く上へ放り投げる。
落ちてくる木箱を、高く上げた左脚で念を込めて蹴り上げた瞬間、「その力」は発動する。
飛び散った木っ端が地面や壁にぶつかって粉々になったときには、月明かりで鈍色に光る「怪人」が立っていた。
この強化装備によって、ただの牧師は垂直の壁をヤモリのように走り抜け、爪で鉄を切り裂くことも可能になる。
やはり《フロッグ》は脱走者の確保が目的だったらしい。連れ戻されれば今度こそ非人道的な実験は免れない。かといって拒否すれば容赦なく命を奪われる。まだ正気を保っていると見える少年を、そんな理不尽には晒せない。
だからジンは《フロッグ》の命を奪う。それが敵にとっては圧倒的な理不尽だと知りながら。
『……せめて安らかに眠れ、兄弟』
この《ゲッコー》も、出所は《フロッグ》と同じ。研究所で不当なあつかいを受けた自分と彼らは兄弟も同然だ。
しかしその遠い弟妹たちは一人も生かしておいてはならない。自分がどれほど罪を重ねようとも、自分の不幸を連鎖させてはならない。
地面に転がっていた空き缶を蹴り上げる。ヤモリの化け物から人に戻ったジンは、唇を噛んで月を見上げた。
明日からはあの少年を捜さなくては。
帰宅してすぐ冷水を浴びるのは、血を洗い流すためではない。皮膚は綺麗になっても、魂が浴びた血は落ちないから。
幾度くり返しても慣れることのない罪への悔恨と懺悔。暖かい季節でもないが、肌を切る冷たさが今は必要だった。
「……っ」
あふれてくる涙を覆い隠す水流が。
しかしその隠蔽が通用しない相手もいる。時折ジンのベッドを占拠しにやってくる、危険で魅力的な男。
彼の体温を感じているあいだだけは、ジンは罪と向き合わずにいられる。
◆

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